あいのあるもの2️⃣〜序章〜解釈の自由
私が汚物を撒き散らかしたように
解釈の自由は誰にでもある
私は暫くと絵を描かずにいる
絵を描いている時期には
ファンと称する、もの代わりな数名の方とDM等で接触する機会が度々あった
「ファンだ」
とその方達が言ったので
素直にそう捉えるとしよう
解釈の自由として
私の絵がどんな風に捉えられてもよいだろう
あなたの絵が好きです。
そう言われるだけで私は満たされたし
もちろん絵に対する酷評や自身の見解を示される方もいた
どれもありがたく興味深く聞いていた。
だが時折
熱烈さの度を超えくる方もいた
その時々の絵のタッチの変化等で
私の心身の極度の心配をされることもあったし
完全に自分と重ねられることもあった
男性から心からツインソウルだと言われたこともあった
誰にも分かってもらえない君の気持ちが理解できるなどとも言われた
まったくここまでくると大きなお世話である
まあ、この時期に例のポエムを読むこととなるのだが
ただのクソババアにもファンがついた
ということになるので
私は優しい言葉で全否定した
とにかく自ら感じたことや
その先に膨らんだ何かを作者へ伝えることも自由だろう
こっち側へ投げられたボールを丁寧に受け取るのも
私がそれらを度直球ストライクで投げ返すのも
優しく否定するのも
それを返品するように拒むとしても自由だ
そういうことがとにかく面倒だと感じたということもあるが
最近の私は
絵を描く時間があれば寝ていたいわ
という感性に辿り着いた為
今は絵を描くことを終期なく辞めているところだ
話は戻るが
私は例のポエマーに糞便を投げつけたわけではない
自分の中だけの解釈の風景上に糞便を置いただけなので別に誰の気分を害したわけでもないと思っている
くどいようだが
『そこ』に『それ』を置くことで私の中で丁度良くなる
もう少し言うなら、一人で飲むコーヒーに小さじ何杯砂糖を入れるか
という匙加減くらいなのだ
私はそのポエマーが誰だとも断言していないし
すべてのポエマーを否定しているわけでもない
そしてもちろん心から感動する作品に出会うこともある
ただ私は
「誰かの作った何か」に
「私はこう感じた」
もしくは「全く何も感じない」
という純粋な結果でしかない
結果でしかないものを
小学生の頃の芸術鑑賞の感想のように
他者と共有することもよいのだろうが
あまり意味がないものだなぁと思っている
結果を共有するということは
結果にありとあらゆる肉付けがされてゆき
純粋な本人の導いた結果とはかけ離れていく気がする
感じることと言葉にすることはまるで違う
感じたことを言葉にする楽しさと、それを共有するすばらしさも知っているが
自分にとっての丁度良い好みになるように
調節しながら
基本的には
瞬間的に自分の純粋に感じとったままの
解釈の自由を自分だけで楽しむ
そちらのほうが自分の場合楽しめる気がする
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